居合の極妙は抜討の一瞬にあり、抜討つ一瞬の機を誤らば生死その所を異にせん。早さと、正しさと、力強さと、これ居合修行の眼目也。然りと雖えども、初学の士、早さを先にする時は身体正しからず、刃筋立たず、気合伴はずして、居合の体をなすこと能はず、よってまづゆるやかに抜き習ひつつ、流儀の掟に従って、手の内、刃筋、体の構、気合の練磨をなすなり。かくて流儀の体を備うるに至り、次第に彼我の気合を明らめ、抜刀の速さを増し、遂には緩急時のよろしきに従って自在の境地に至る也。今の居合者流、多くは基礎練磨のゆるやかなる抜刀に止まり、これを以って至上となす。誠に思はざるの甚しきなり。高上の位は一日にしてなるものにしてあらず、基礎練磨の功をつみてのみ至るべきものなれども、居合究意の境を知らずは、そは刀の舞たるのみ。
 「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」。こは道元禅師の語なるも、人は生死の関を透脱して始めて大成するもの也。居合は白刃を執って生死の境を修業するものにして、人間完成えの修業道なり。生死の境ほど人間にとりて静粛なるものはなし。人は身を生死の境におくことにより、もっとも静粛なる心境になり得るものなり。この境地や、純一無雑にして、諸の雑念消失し、神人合一の境界に入るもの也、人にして日に一度にてもこの境地に入るの修業をなさば、自己の真実を見ることを得て、真の人間となるの基をくづく事を得ん。唯この境地は技の進歩と共に開眼するものにして、修業を怠り、空論をもてあそはば、百年河清をまつに人しからん。
水鴎流八世十四代宗家 勝瀬光安
居合修行の眼目
居合修行の眼目